〈 第5回 〉
深まる秋、一年中でもっとも心地よい季節だが、いわゆる風邪(ドクターがそのカルテに上気道感染症と書かれる病気)にかかる人も多くなる。前回にも見て来たように、この万病のもとである風邪が人を襲った時その最初の段階を『傷寒論』では太陽病と名づけ「傷寒」「中風」の強弱二つのパターンがあること、これに対し、麻黄湯、桂枝湯という代表方剤を掲げて対応策を教えていた。このように先ず大枠を示した上で、多様を極め、また千変万化する病態を混乱におちいることなく、整然と理解せしめんと論が進められてゆく。では風邪のかかり始め、「太陽病」とはいったいどんなものだろう?『傷寒論』はその「太陽病」篇・上の冒頭で開口一番「太陽之為病、脈浮、頭項強痛、而悪寒」(太陽の病とは、脈が浮で、頭項強痛して悪寒す。)と明確にきり出している。二本の足だけで立ち上がり、余裕のできた上肢でせっせと道具を拵えたあげく文明を作り出したといわれるヒトも、もとはといえば犬と同じ四本足の動物、この四つん這いの姿勢の時、日光の当たるところが人の陽の部位だ。経絡でいう「太陽(膀胱)経」はここを通っている。いわば体の表玄関で、外邪もここから浸入してくると考えてよい。とりわけ上部に位置する項が最も敏感に感応してフリーズする。太陽病の、脈が浮で頭項強痛して悪寒がするという症状があらわれる場面である。このような時に古人は数ある薬物の中から賢明な選択の末、葛根をとりあげた。
葛根:マメ科、葛(クズ)の塊根を乾燥したもので一辺が0.5mmくらいのサイコロ形にきれいに調製されたものが安価に入手できる。味は甘・辛、性は平、脾胃経に働く。薬理作用は色々あるが第一に解肌退熱といって表寒を解放してくれる上、とくに項背部のこわばりを緩和する力がある。また生津といって体液の不足を補い、口渇をとる養陰の作用がある。血液の粘性をとる働きもあるので脳血管をよく行らせ、冠心不全に有効とされる。筋肉に働きその拘攣をゆるめるのも同じ作用であろう。そこで『傷寒論』太陽病篇(中)のはじめに次の条文が出る。「太陽病、項背強几几、無汗悪風、葛根湯主之」(太陽病で項背強ばること几几、汗なくして悪風する者は葛根湯がこれを主治する。)几几とは羽の短い鳥が飛び立とうとして首を前に突き出す有様で肩や頭のこわばった人を形容している。
この葛根湯はさきの桂枝湯に麻黄と葛根を加えたものとも見ることができ、葛根8g、麻黄・大棗各4g、桂枝・芍薬各3g、甘草2g、乾生姜1g、水煎服。わが国ではまるで漢方薬の代表みたいによく知られ、愛されてきたこの方剤は古くは川柳にも登場したといわれるがエキス剤メーカーの通し番号でもたいてい、はれがましいNO.1がつけられている。それも道理だとうなずけるくらい昔から日本人はこの方剤を根気よく掘り返し、手塩にかけて肥沃な土壌に仕上げたおかげで、そこから尽きることのない治療の実りを得ているのである。
1)発熱・悪寒あるいは悪風があり、項背部すなわち僧帽筋領域の筋肉が緊張し、脈が浮で早く力がある時、この目標に従って上気道感染症、流行性感冒、チフス、肺炎、気管支炎、麻疹、リンパ腺炎、脳膜炎、丹毒、猩紅熱、その他急性熱性感染症の初期、すなわち発熱後1~2日に用いることが多い。
2)熱がなくても項背部に炎症充血などの病邪の浸入があって「項背強ばる」の目的が明らかな場合、肩こり症、四十肩、五十肩、ねたがいで首がまわらぬもの、腰痛、関節リューマチの腹部に変化なきもの、破傷風初期、トラコーマ、腹膜炎、眼瞼炎、網膜炎、ものもらい、副鼻腔炎、蓄膿症、口眼斜、口噤(太陽痙病)に用いられる。また、鼻炎、肥厚性鼻炎で頭痛し項背強ばるもの。皮膚炎、湿疹、蕁麻疹などで発赤強く、分泌物のない表証のもの、フルンケル、カルブンケル、筋炎、皮下膿瘍、おできにも卓効を得ることがある。また、急性腸炎、急性大腸炎でしぶり腹をともない発熱、悪寒、頭痛、下痢し、項背の強ばりがあるものなどである…でもこれらのことはすこし詳しい漢方の解説書にはどこでも詳述している。この通りなのであるが私はもうすこし手もとに引き寄せていっそう親しみやすい葛根湯の一面をお話ししたいと思う。
(この項続く)
(広報誌「清流」第52号(2000.12.20)より)