防府薬剤師会のあゆみ
〈 その1 〉
松村薬局 松村 敏輔
ある会席でのこと、前会長の田中先生より、終戦から20年余りの防府薬剤師会の状況が 全くわからないのですが、どんな運営なり活動がなされていたものか知りたいので、 是非書いてほしいとの要望があり、編集部よりも再度のお求めもありまして、 実のところ困惑しました。
何しろ半世紀前のことでもあり、特に資料がある訳でもないのですから。 そこで、薬剤師会員の一人として、私が経験し行動してきた事柄をお伝えすることで、 その概要が分かって頂けるのではないかと考え、誠に心苦しいのですが御了承願えればと思います。
私が開局して、防府薬剤師会へ入会したのが昭和22年、今から51年前のことになります。 当時は今だ終戦後の混乱物資不足、特に食料不足が引き続いていた時代のことです。
先ず、会員の構成はと申しますと、会長には戦地より復員直後の渋谷喬先生が就任されており、 病院勤務の薬剤師としては唯一人、原田里子先生(後に県中)が広中病院(現車塚NTTの場所)に おられたのみで、当時薬剤師を受け入れる医療機関は外にはなかった状態でした。 従って、残りは全員開局者で、総勢23名程度でした。
写真をご覧ください。(ページ下)
これは当時の会員全員(原田里子先生、後藤薬局さん欠)の記念写真です。 この催しは、昭和25年ではなかったかと記憶致しますが、駅通り角にありました 木造3階建ての前田百貨店(後に寿屋、エムラ、現在空き地)の3階を借り切って 準備に2週間、本番5日間と、全員で分担して行った思い切った事業でした。
薬品展示・ペニシリン製造工程・水質検査の受け付け、特に好評であったのは、 柏木体温計工場より体温計検査機を借用し、家庭に眠っている体温計が使用可能か否かを 検査して差し上げるセクションでした。
それにしても当時の薬局経営は、家庭の負担を黙視さえすればある程度の時間のゆとりは 得られた時代でした。
当時の薬業界の移り変わり、分業運動、三師会の取り組みなど、次の機会にお伝えしたいと思います。
(広報誌「清流」第41号(1998.9.15)より)