〈 第四回 〉
太陽が昇ると、山には太陽に向かいあう明るく暖かい面と、背を向けた暗く冷たい面とができる。陰陽の認識のはじまりであった。人々のながい思索の蓄積が豊かになり、陰陽の意味はいっそう練られて、やがてそれは事物の内部に確然とした2種の相反する属性が存在しており、これは普遍的なものであるという認識に到達する。例えば世界は天と地より構成され天は清く澄んで上にあり、形がない。地は重く濁って下にあり、形がある。一日は昼と夜で構成されて、昼は太陽が昇り人々に明るさと暖かさをもたらす。夜は太陽が沈み月が昇り、人々に暗闇と寒冷をもたらす。一日はまさに太陽と月に象徴されるところの二つの明確な属性によって構成されている。
陰陽という眼鏡をかけて観察する訓練をつむと、この世界の森羅万象はことごとく陰陽の範疇から離れて存在するものは何一つないということがよくわかる。陰陽は具体的概念から抽象的な概念へと変換し、哲学の範疇となった。「霊柩」の"陰陽系日月編"に「陰陽は名ありて形なく」と説明している通りである。また、同じ「霊柩」の"病伝"に「陰陽を明らかにするは惑の解けるが如く、酔の醒めるが如し」と説いている通り、ただ陰陽の道理を明らかにしさえすれば、解けない問題であっても、たちまち解決できるのと同じように、また酔いつぶれた人が、すぐ酒の酔いがさめて頭がはっきりするのと同じことである。「内経」は陰陽学説を方法論として、よく思考を広げ、知恵を得て人を聡明にさせるもので特に医学の各方面に運用するのである。われわれも漢方であれ中医学であれ、この学問を実践するに当たっては当然のこと乍らその基礎に陰陽哲学を踏まえていなければならない道理である。
われわれ薬を作る者として、百味だんすの前に立つときのみ陰陽哲学の薬物論や陰陽哲学の病理観をかかげて事に当たり、すんでしまえばちょうど白衣を脱ぎ捨てるように惜しげもなくそれを捨てさって、陰陽のことなど忘れてしまうというようなことではこの医薬学を100%活用することはできないのではないだろうか。
話が少しかわるが車椅子の天才科学者ホーキング博士の「ホーキング宇宙を語る」の最初の頁に面白い話がのっている。ある有名な科学者が天文学の公開講演を行って、地球がどのように太陽を回っているのか、又その太陽が星の巨大な集団であるわが銀河の中心をどのように回っているのかを説明した。講演が終わると一人の小柄な老婦人が立ち上がってこう言った。「あなたのおっしゃったことは、みんな馬鹿げていますわ。本当は世界は平たい板のようなもので、大きな亀の背中に乗っているんですもの。」「ではその亀は何の上にのっているのでしょうか。」見下すような薄笑いを浮かべて科学者がたずねると、老婦人は平然として答える。「まあ、お若いのにおつむのおよろしいこと。でも、よろしくって、下の方はどこまでいっても、ずっと亀が重なっていますの!」
さて、はてしなく重なった亀の上の宇宙観を苦笑したあとで、すでにずっと以前にテレビで月に人類が足跡をしるすのをこの目で見、ホーキング博士の説く最新の宇宙論に耳をかたむけたわれわれは、月と太陽をその象徴とする陰陽論「天は清く澄んで上にあって形がなく…」という宇宙観を心の中にどのように矛盾なく共存させることができるだろうか?
(広報誌「清流」第41号(1998.9.15)より)