漢方の基礎

カワムラ薬局 河村 昭

〈 第七回 〉

 整体観、本によっては整体観念と念入りに書かれているものもある。「やい!この野郎!観念しろ!」というあの観念だ。さてその整体観についてもうすこし続けてみたい。そもそも冒頭から「整体観」をおしつける「中医学」とはいったい何であろうか。

 何一つ条件がつけられないことこそ学問が生まれる素地であろう。何ら偏見も思いこみも、先入観もない場所にしか学問は生まれ得ない。何一つ注文をつけられることのない、独立した、絶対の公平、公正な精神が学問を育てる唯一の力である。この合理主義が現代文明の推進力である科学にあれほどの力を賦与することができたのだ。そうして、科学の上に立脚する現代医学も例外ではない。そこにも公正な合理主義の精神、実証主義の方法が支配しているからこそ、この医学が史上類を見ない力を持ち、豊かな実績を誇っているのである。このような自信と自覚から現代医学の間で、現代医学以外の種々の伝統医学等を代替医学と呼びならわして話題にされているようだ。さて、このようにまばゆい科学の光に中にあって、代替医学の一つである中医学が憶面もなく持ち出してきたものが得体の知れない呪文「整体観」だということができよう。ともあれ、当面の謎である「整体観」も現代医学との比較において考えてみるとすこし解けてくるように思われる。

 現代医学ではこのような一つの固定観念を強制されることはない。いやむしろいっさいの固定観念や実証を伴わない独断が何よりきびしく拒まれる、理性の世界である。すべての学問の世界の基本の条件ということができる。

 ひとり中医学のみこの条件を免除されることが許されるだろうか。それは駄目だ!そんなことは許されない。それでは科学とは言えない。何喰わぬ顔をして少なくとも実証科学の栄えある戦列に加わることはできないのだ。だからといって、中医学が自ら抱えこんでいた厄介者か何かのように「整体観」をそっと始末しようとするかといえば、それはあり得ないだろう。中医学から整体観をとりのぞいたら中医学は死んでしまう。だが世界が生き続ける限り中医学も生き続けるだろう。恐らく世界が消滅しても科学は存在しつづけるかもしれないのとちょうど良い対称をなすようだ。

 基本的には、中医学はこの世界を偶然の産物としてとらえるのではなく、又人間の体も、ある無限の意図された創造物に他ならないという認識に立っていると考えられる。このようないささかうわついた説明を、当の中医学はもっと醒めた表現で「整体観」と呼ぶのである。中国の人々の徹底した現実的性格について私の師である大塚敬節先生もその著書で指摘しておられたのを思い出すことができる。ともあれ、この整体観の中に中医学の(恐らく漢方医学の)基礎がかくされていると私は思っている。「無限の意図だって?」という反論が湧きおこることはまちがいない。「いったい、どういうふうに証明してみせるのだ。いいかげん憶測は通用しないのだぞ!」というわけである。そこであらためて中医学の本を総動員して「整体観」の説明をかたはしから洗いなおしてみて、果たして「清流」誌上に載せてあっぱれ先生方を「なるほど」と膝をたたいて納得せしめるようなよい説明を探しまわったのだが、いかんせんどれもこれもまことに要領を得ないまずいものばかり。著者の先生方、本当にわかっているのかしらん?などと思ってしまう程だ。

 ではここは一つ私が火中の栗を拾うことにしよう!中医の先生方が毛主席ににらまれることをひたすら恐れて、かりに毛主席が亡くなられた今でも共産主義体制下の社会では、やはり唯物弁証法からあまりはずれた言説や理論を展開することをはばかられるのは理解できる。それにしても、「神」とか創造主とかこなれない言葉を持ち出さなくても、「整体観」を理解させるに足る動機はまだあると思われる。それこそ中国にしかない素晴らしい言葉がある。それは道である。タオともいう。曰く、「一陰一陽、之を道と謂う。」(『易経』繋辞上伝)とある。

 このようにして話が又陰陽にもどってしまうのだが、陰陽はこの世界を動かす力をも象徴していることがわかる。全く新しいパラダイム・シフトを迫られているのを感じる。

(広報誌「清流」第46号(1999.9.30)より)

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