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防府薬剤師会のあゆみ

〈 その8 〉

防府薬剤師会のあゆみ8 ~防府薬剤師会の歴史と共に~   

 私は古いだけの一薬剤師で、しかも徳地町で開局していますので、おそらく過去の防府での薬剤師(会)の動きはわからないことの方が多いと思いますが、投稿の依頼を受けましたので、敢えて拙文を書くことにしました。私の主観が大いに混じることを許していただくと共に、誤りの記述には是非ご指摘をいただきたいと思います。
昭和38年頃
 この頃はどこでもそうだったのか知れませんが、薬局の数も少なく(25店くらい)開局には適正配置の距離制限があり、薬局の増設もほとんどなかったと記憶しています。勿論、薬局の形態としてスーパーのはしりは出ておりました。薬大を出ても、メーカーや病院に就職するものが多く、勤務以外のいわゆる新規の開局者は少なかったと思います。私が薬剤師会に入会したときも、すぐ上は河村昭先生で、つまり7-8年は誰も開局するものが無かったということです。私の後はしばらくして宮田先生が入られました。市内の薬局は規模が大体同じくらいで、そういう意味でも会はまとまりがありました。勿論会は法人ではなく任意の団体で、事務局もなく会員や会長の自宅で集まりを持つことがありました。総会も河杉旅館(富海)、後に望海荘、中谷などの畳の部屋で行われていました。
渋谷喬先生(県薬会長、県議会議員)
 防府で忘れてならないのは、渋谷喬先生です。昭和37年から51年まで15年間県薬の会長であり、また県議会議員もされました。そういうことで、県の或いは県薬の情報はすぐに防府支部に入り支部における活動も県薬のそれに合わせたものでした。それ故支部独自のものとか、支部が事務局を持ってということでなく、偉大な会長の傘の下にあったような気がします。
 薬剤師会と薬剤師連盟は、表裏一体の関係にありますが、先生はさすが政治家で薬連の議題に入るときは、必ず一旦薬剤師会の会合を閉会し、薬連の開会を宣してから行われました。選挙違反などのトラブルに巻き込まれぬための気配りであったのだろうと思います。今でも見習うべきことだと思っています。
薬業商業組合(商組)での親睦会
 薬種商と合同の親睦行事が、同じ薬を扱う者同士のきずなを深めるために行われました。秋のマツタケ狩り(真尾)、佐波川尻の魚のつかみ取り、西浦のみかん狩りなど。
県中薬剤部との関係
 渋谷会長が県議会議員であったことや、松村敏輔先生と岡村節夫先生の師弟の関係もあってか、いや、何よりも先生方の人間性故当時他支部では、病薬とは疎遠な所もありましたが、防府では支部会員として常に一緒の行動がとられました。また、会は当時から学術面における指導や協力をうけ、大いに恩恵を蒙ってきました。

学校薬剤師の活躍
 昭和36年必置制となった学校薬剤師は個々人で学校に対応もしたが、グループでも、全体としても事に当たってきた。検尿、水質検査、騒音測定、照度測定、空気検査、給食室の衛星検査、牛乳の経時変化の検査などを行い、各種の会で発表した(学校医等研修会、九山大会学薬部会など)。
 検査室がないので保健所、看護学校、旧旭薬品、板村ビル、タバコ産業、市公会堂などを利用させてもらってきている。当時学薬のメンバーは他の行事においても中心的存在であった。
薬と健康の週間、薬と健康のフェアの共催など、
 「薬と健康の週間」には、僻地学校(徳地町、野島)への救急医薬品の贈呈を県(保健所)と共催した。その他公害調査(旧2号線で車の排ガス調査)、薬草展や薬用酒試飲会(27回健康なくらし山口県大会―1961年、山口健康フェア―1963年)など。

次に年次的にトピックスをひろってみよう。

昭和37年
第10回NHK夏期移動相談(徳地町)で防府薬剤師会メンバーは、寄生虫検査をおこなう。

昭和45年
防府青年薬剤師会を結成。岡村節夫先生を会長に昭和生まれの会員(職種をとわず)35名で構成された。保健所岩城篤男先生の発案と記憶しているが?
休日緊急診療」に積極的に参加。薬剤師16名。

昭和50年
防府調剤薬局オープン。備蓄薬品208品目。

昭和52年
支部持ち回り最後の県薬総会を防府支部が引き受け。
県薬では、代議員制に移行するため、この代30回県薬総会が支部持ち回り最後の大会となった。防府天満宮参集殿を中心に行われた。

昭和53年
一週間分業。
防府医師会と話し合いが持たれ、これを実行する場合、医師会から連絡するということであった。薬剤師会としては、備蓄薬品体制として防府調剤薬局を充用することにした。
結果的には特別処方箋の発行は行われなかった。

昭和56年
分業の先進地(佐賀市、北九州市若松区)の視察。
現状により更に分業をすすめるにはどうするか、既存の薬局を分業に参加させるには、どうするかなどの観点から視察が行われた。

尚、昭和60年以降については、大方の会員がご存知の通りである。

広報誌「清流」第67号(2003.12.30)より  原田薬局 原田信正

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